熱に浮かされて 後編 (やしなる)

熱に浮かされて 後編 (やしなる)

 


 先輩が呼んでくれたタクシーは本当に直ぐに来てくれた。

 わたしを先に乗せて、日傘を畳んでサングラスを外した先輩はわたしとパッと目が合うと一つ息を吐いて、キリッと引き締まった表情で車内に乗り込んで一番近辺にある病院を指定した。

 体調を崩していても、先輩の表情一つ残らず見逃したくないのに、瞳で捉えた先輩の記憶が朧に薄らいでいく…

 


 タクシーの揺れが頭痛とめまいを増長して、急に吐き気の症状が襲ってきてしまい口に手を当てると、苦しい声すら発することが出来ずに先輩へと腕を伸ばして助けを求めた。先輩はすぐにわたしの急変に気がつき、タクシーの運転手にエチケット袋の有無を確認し、備え付けられていたもので何とか間に合った。

 わたしの背中をさすりながら、悪いものは出しても大丈夫よ、楽になるから…と励ましの言葉を掛けてくれることが嬉しかったが、それと同時に先輩に情けない姿を見せてしまったことがとてもショックだった。

 

 嘔吐が落ち着いてから幾分か経ち、タクシーの運転手に娘さんは大丈夫ですか?と聞かれて、先輩の息を飲む音が鮮明に聞こえた。わたしは頭痛とめまいで朦朧とする中、先輩は少し不満気を含んだ声色で『この子は娘じゃなくて、わたしのとても大事な………』と最後まで聞くことが出来ず、意識はそこで途切れてしまった……

 

 


***

 

 


 意識が戻ると見覚えのある景色が見えた。体は動かすことが出来ずに目視で確認すると、病院のベッドで横になっているのがわかった。

 ゆっくりと周りを見回しても、医師も看護師も不在らしく、心身共に不安定なこの状態から一人で取り残されることに強い恐怖感を覚えて震えた。

 その時、不意に左肩付近にビリッと緊張の痛みが走った様な気がして、急激に息苦しさと心臓の鼓動が速くなり、苦悶に満ちた顔で塞ぎ込んだ。

 


…だい…じょう…ぶ?

 


…ほ……る……す…

 


…落ち着いて…

 


 いつの間にベッドの傍に来てくれたのか、震えが止まらないわたしに、必死に呼びかけてくれる先輩が目に映ると、片手を伸ばした腕が空をきってすぐに力無くベッド脇に垂れた。

 


「ううぅわぁぁあああ…っひく……せんぱい……わたし……あたまの中がぐちゃぐちゃで…くるしくて…あつくて、おかしくなって…るんです……」

「高熱で朦朧とする中、あの日の恐怖が振り返したのね…出来ることなら今はその恐怖感だけでもわたしが変わってあげたいと思うのよ…」

 


 ベッドに身を乗り出して体をさすってくれる大きな手は、わたしがまだまだ出来ないくらいの慰りが十分に感じられるケアをしてくれて、安らぎをくれる。

  幾分か落ち着いてきたので、頭を動かして先輩の方に顔を向けた。

 


「………っ……はぁ………先輩…ごめんなさい」

「矢代…よかった…心配したのよ」

「ここは病院すね…先輩が自分を運んでくれたんすか…?」

「ええそうよ。…まあ実際には、タクシーの乗車中に病院へ連絡をして、着いたら直ぐにストレッチャーに乗せられて処置と検査を受けたの。肺炎の一歩手前という診断結果よ、まったくあなたって子は、余計な心配をさせないで!」

「すみません、こんなにご迷惑をおかけするとは思っていませんでした…しかも嘔吐のお世話までさせてしまうなんて、もうお嫁に行けないすね…」

「あれくらいならべつに問題ないわよ。というか、お嫁に行けないってどういう意味?高熱が出てて、どこかの誰かさんと間違えてるんじゃないの?」

「自分がお嫁に行きたい人は…先輩が思ってる様な人ではなくて…あの……な、なんでもないすから、今の話は無しでお願いします…」

「ふーん…あなたの恋話なんて興味ないし、もうだいぶ落ち着いてきたみたいだから、わたしは仕事へ戻るわね」

 


 先輩は座っていた椅子から立ち上がり、優しさを浮かべた笑みで、わたしの頭をしばらく撫でてくれた。

 その優しい手つきが心地よくて、身を委ねていた。

 

 

 

 先輩は知らないだろうな。先輩がわたしの背中に回してくれる腕に、守られているような包容力を感じて、高鳴る胸を抑えてときめいていることを…わたしを撫でてくれる優しい手に、安心感と温もりからあなたの傍に寄り添っていたいと想う恋心にも気づいていない。

 


 わたし自身が今気がついて自覚し始めたばかりなんだから当然なんだけどね。

 


 熱に浮かされてるのを口実に、少しだけ甘えても許してくれますか…?

 


「先輩…眠るのがちょっと恐いから…お願い…ここにいてほしいす…」

 


 頭に片手を上げて悩ましそうな表情を浮かべたのち、仕方ないと諦めた様な苦笑いの先輩がわたしの思いに応えてくれた。

 


「仕方ないわね…あなたを送り届けるところまで付き添うつもりだと約束しちゃったし、仕事が終わったらすぐに戻って来てあげるから、安心して休んでいなさい」

「はい…わたし…待っています……高熱に浮かされるのも…悪くはない…かも…」

 

 

 

 安心感からようやく息苦しさが治りをみせて、ひとときの眠りについたのだった。

 

 

 

…終わり。