熱に浮かされて 前編 (やしなる)

 熱に浮かされて 前編 (やしなる)

 

  大人になったら一人で何でも出来るし、何も不安に思うこともない筈だった…

 仕事だって自分の適職と思って働き甲斐があり、プライベートな時間は柔道の稽古や体力作りに励んだりとやりたいことを全うしていると言える。

 ただ、最近のわたしは仕事と稽古だけでは物足りない想いも抱え始めていた。

 


 それは、運命的な出逢いだったのかもしれないと思ったり、あの人のことが気になって考える時間が増えているのは事実だけど、まだ気持ちの根底にあるものも分からずにいるし、本人に伝えられる筈もなくて、憧れと尊敬の対象なのだと自分に言い聞かせたりして…

 この熱い想いはどこから湧いてくるのか…身も心も熱りを帯びて体がどうかしてしまったのか、自分自身に問いかける…

 


 しかし、現実はそんなに甘くはなかった。熱に浮かされた体が思考とは裏腹に、何一つ思い通りにいってはくれないのだった。

 

 

 

 朝、目覚めた時から頭痛と熱っぽいような気怠るさを感じていた。いつもより遅めに起きて、シャワーを浴びる体も重くてさっぱりしたとは思えない。でも、自分は仕事を休むなんて考えられないし、あの仕事場には体を引きずってでも逢いたいあの人がいるんだ……

 

 

 

***

 

 

 

草加さん失礼、3-Eの一番上取って頂ける…? あら、お出かけ中なの…それじゃあホルス、あなたにお願いしてもいいかしら?」

「……………」

「ちょっと、聞いてるの?返事くらいしなさいよ…ホルス?」

「…………はぁ…はぁ………っ………」

 


  第6係の地下にある一室に着いてから、呼吸が乱れるような息苦しさと、意識まで朦朧とする熱っぽさが体の自由を奪っているのがツライ…いや、まだ平気だ。

 先輩の声が聞こえて、いつもみたいに明るく元気な声で返事をしたかったのに、明るく振る舞う余裕もないみたいだ。

 


「…まだ…平気だし…これだけは終わらせ……ひゃっ!?」

 


  額と頬をひんやりとして良い匂いがする何かが触れた。それが何か直ぐに理解が出来ないくらい心地良くて頭がふわふわしていた。

 


「あなた…額も頬もすごく熱いわ…高熱が出てるじゃないの」

「……んー……こうねつ……なんのことすか…?」

「バカホルス!なんでそんな体で仕事に来たわけ?信じられないわ」

「せんぱいのこえ…すごく頭にキンキンひびく…」

 


  その時、上に呼ばれていたらしい財津係長が室内へ戻って来る音と声が聞こえてきた。

 


「あれー?鳴海くん、矢代くんの頬と肩に手を置いて何かあったの?」

「係長、矢代が高熱を出してる様子なので、早く帰らせてあげるべきかと思います」

「ああ、朝から様子が変だと思ったら、やっぱりそうか…それじゃあ」

 自分の意思とは違う方向へと話が進んでいくのを遮るように、声を絞り出した。

「……あ……自分なんともないすから…気にしないで………さい」

 頭がぼんやりして、掠れた声しか出せないのがつらい。

「ホルスはもう黙っていなさい…というわけですので、早退させます」

 


 先輩に立ち上がるように即されて、いつも持ち歩いているリュックを無抵抗な状態で背負わされると、ふらつく体を支えられて倉庫の扉を開けた先輩に気をつけて帰るように念を押されるのだった。

 このまま戻ったら次は先輩をこっ酷く怒らせてしまいそうなので、渋々と長い階段を上って行くことにした。

 


 普段は何も考えずに上れる階段が、今日は一歩ずつが足に鉛を吊るしているんじゃないかというくらい重くのしかかり、途中で何度か足が絡まって段差で滑りかけていたが、階段の上の通路までたどり着いた時には息切れのような胸の苦しさを感じていた。

 

「……ん……はぁ……せんぱい……たすけて…」

 

 苦しく息を切らしながら、そこにはいないあの人に助けを求めてしまうなんて…本当に先輩の言う、『バカホルス!』だと自嘲気味に思った。


 その後も重い足取りで建物から出ると、眩しい陽の光が顔に差し込み、目が霞むような眩暈に襲われて立ち止まって落ち着くのを待った。

 そういえば、先輩も陽射しを嫌っていたことを思い出したら、胸の奥がほんのりと温かくなった。

落ち着くまでの間、数人ほど刑事の関係者と挨拶を交わしたのは自分でもさすがに驚き、気力で持ち堪えて歩き出した。

 かなり歩いたのか数歩だけだったのかわからなかったが、不意に背中に腕が回されて支えられる感覚に包まれていた。

 横目でその人物を確認すると、サングラスをかけて日傘を差した全身黒い服装の、想い焦がれるあの人が背後に佇んでいたのだった。

 


「ホルス。あなたはそのふらつく足のまま、徒歩で帰るつもりなの?」

「徒歩……とほ……あうぅ……頭痛いす………」

「思ったとおりだったわ…タクシーを呼んであるから、もうしばらくそのままで我慢しなさいね。さ、わたしの日傘に入って」

 


 先輩の口調は柔らかくて優しく、普段の淡々として相手の心を見透かすような物言いは全く感じられない。その穏やかな声色で話しかけてくれる先輩のことを想うと、動悸が早くなった気がするのは熱のせいだろうか…

 先輩に背中を預けていると、守られているような包容力を感じて、このまま先輩が背中にずっと腕を回したままで包まれていたいと思うくらい、今の自分は心が弱っているのかもしれなかった。

 

 

 

「ホルス、大丈夫? タクシーもうすぐ来るわよ」

「せんぱい……ん…はぁ……お仕事……もどらないの…?」

「お仕事には戻るわ、あなたを病院へ連れて行ってお家へ送り届けるところまで付き添うつもりよ。だからもう静かにしていなさい…」

 


 先輩は、わたしのコクンっと頷いた姿を見ると、サングラスの奥の瞳が穏やかで情愛が感じられる様に見えたのは、気のせいではないと思っていいですか…?……鳴海先輩………

 

 

 

…続く。